会社沿革
復興の時代
戦災消失戸数215万戸、疎開滅失戸数55万戸、住宅不足数420万戸。1945年8月、日本の戦後は深刻な住宅難で幕を明け、数年間は食料不足、失業インフレなど生活の破壊に脅かされながらも、この戦災復興を契機に日本の住宅水準を見直し住生活の改革に向けて創造的な試みが意欲的にされた時代です。
モダンリビング確立の時代
戦後直後の緊急復興期の住宅建設もようやく一段落すると、「狭いながらも楽しい我が家」の夢が急速に花開きました。生活の安定とともに持ち家志向が高まってくると、資金不足が問題となり、1950年政府は「住宅金融公庫法」をスタートさせました。 翌年には公営住宅設計指針となる公営住宅法が作成されます。1955年には深刻化してきた大都市の住宅難に対処するため「日本住宅公団」が創設され、「公営・公団・公庫」という日本の住宅政策の三本柱が出揃いました。公団住宅で採用されたダイニングキッチンはこれまでの日本住宅の間取りを一変させました。その後公団はリビング空間を確立し「公私室型」と呼ばれる新しい間取りを生み出し、日本のモダンリビングの先駆けとなりました。
住宅工業化の時代
高度成長経済の波に乗った住宅産業の大進出は、住宅設計の在り方にも大きな影響を及ぼしました。住宅生産は従来の手工業的職人生産から、規格化された部材による大量生産に代わり「工業化」「工場生産(プレハブ)化」が進められ、60年代後半から建売住宅が急速に増えていきました。
1965年に、プレハブ工法の一種と当時言われた2×4工法が、日本ホームズによって日本で初めて一般住宅に導入されました。
日本初、2×4工法を開発。
新日本ホームズの前身である日本ホームズ株式会社が、新日本製鐵(株)と竹中工務店の共同出資により設立。日本で初めて一般木造住宅に2×4(ツーバイフォー)工法を導入。
プリンスハウス
施工・行程や流通の合理化、住宅のデザイン性…。
「質の高い住宅」をめざした日本ホームズは、1960年代初頭の住宅業界が直面していた課題を解決する方法論として、2×4工法に辿り着きます。当時、日本人のために2×4住宅を供給するノウハウは皆無に等しく、アメリカに学びながら自分たちの手でつくりあげていく必要がありました。日本の風土にあった日本仕様の2×4住宅を完成させるために試行錯誤が繰り返され、遂に1965年5月、東京都港区芝にオープンしたモデルホーム「プリンスハウス」に結実します。
ひとつの理想から、多彩な
オリジナルが生まれました。
2×4工法をもとに、日本の住宅の可能性を高める日本ホームズの挑戦は続きます。プリンスハウスは、各地に建築され街並みを大きく変えていきますが、併行してさまざまなニーズに対応した2×4住宅を生みだしました。
フランク・ロイド・ライトの
建築様式に学び、
深い庇や水平ラインを強調した外観の「グランドシリーズ・コンチネンタル」は、都市型住宅の新しい設計手法に対し「ゆとりとひろがり」を徹底的に意識して開発されました。その後も日本人の住まいと未来を見据え、ナチュラルデザイン、ベース、ブロッサム等の様々な住宅を提案していきます。
グランドコンチネンタル
日本ホームズ株式会社
九州支店開設
新日本ホームズ株式会社設立
日本ホームズ(株)の発想力、デザイン力、技術力を継承して、
日本ホームズ(株)九州支店(北九州市)を分離独立して設立。
日本初の2×4工法の導入から20年を経た1985年、日本ホームズは東京・世田谷の住宅展示場に、現代日本人のための邸宅として二子玉川モデルホームを発表。「憧れだけの欧米風」ではなく「懐古趣味だけの和風」でもない住空間は世代を超えた共感をいただき、これからの日本住宅のひとつの流れを示しました。この日本ホームズの発想力、デザイン力、技術力を継承して、1983年新日本ホームズを設立いたしました。
二子玉川モデルホーム
福岡市に福岡営業所開設
香椎モデルホームオープン
福岡営業所を支店に昇格
博多駅前に事務所移転
香住ヶ丘に新香椎モデルホームオープン
北九州市八幡東区に、
東田モデルホームオープン
福岡支店を東区香椎へ移転
北九州市八幡西区に青山モデルホームオープン
福岡支店福岡南営業所開設
同福岡南モデルホームオープン
本社現住所地
北九州市八幡西区折尾3丁目3番22
へ移転
香椎浜モデルホームオープン[〜2012]
大野城モデルホームオープン[〜2013]
北九州市八幡西区
青山モデルホーム再オープン[〜2012]
福岡支店を現住所地
福岡市中央区大手門2丁目3番13号
へ移転
ひびきのモデルホームオープン
マリナ通りモデルホームオープン
福岡支店内にアウトドア事業拠点、
九州初のSISとしてファロ大濠をオープン